~中秋の名月に導かれた京都祐気取り〜

晴天のもと始まった京都での祐気取り。
御金神社から始まり、護王神社、白雲神社、京都御所へと続く道のりは、
偶然のようでいて、どこかに見えない導きを感じる旅でした。

空には龍神雲、
地には黄金の氣、
そして夜には中秋の名月――。

この一日がくれた“氣のごちそう”は、
心と身体の奥深くまで染み渡るような豊かさに満ちていました。

 

〜中秋の名月に導かれて、京都・御金神社へ〜

ここ最近の祐気取り(方位取り)は、近場が多かったのですが、
この日は特別な日――中秋の名月・天赦日・一粒万倍日という、
三つの吉日が重なる最高のタイミングでした。

九星気学では、方位によって訪れる土地が決まります。
普通の旅行なら行き先を自由に選びますが、
祐気取りでは“今の自分に必要な方角”が自然と導いてくれるのです。
不思議なことに、いつもその場所には何かしらの「気づき」や「ご縁」が待っている――
今回もまさに、そんな旅でした。

黄金の鳥居に導かれて ― 御金神社(みかねじんじゃ)

最初に訪れたのは、以前から気になっていた**京都・御金神社(みかねじんじゃ)**です。
住宅街の一角にひっそりと佇む小さな神社ですが、
朝早くからすでに多くの参拝者で賑わっていました。

黄金色に輝く鳥居が太陽の光を反射してまぶしく、
まるで“氣”そのものが満ちているような力強さ。
財運や金運のご利益で知られる御金神社ですが、
その名のとおり、ここには「金属」「鉱物」「宝」を司る神様が祀られています。
財布を撫でて祈る人、通帳を大切そうに持つ人――
それぞれの願いが、秋の青空へと溶けていくようでした。

絵馬と御朱印 ― わずかな滞在でも心満たされて

境内にはびっしりと絵馬が掛けられ、
どれも金色の文字が輝いていて圧巻の光景でした。
私も一枚に願いを込めて奉納し、
その後、御朱印をいただきました。

滞在時間は今までの祐気取りの中で最も短かったのですが、
それでも「ここに来るべき意味」がはっきりと感じられるほど、
心の中に強い光が差し込むような時間でした。

偶然のようで、必然の出会い

祐気取りを続けていると、
「行くべき日」「向かうべき方向」「出会う人」――
そのすべてが不思議とつながっていく瞬間があります。
この日も、京都へ向かう途中で偶然目にした月や雲の形、
参拝後に交わしたちょっとした会話、
どれもが自分に“今必要なメッセージ”だったように思います。

たとえ短い滞在でも、心に残る氣づきがある。
それこそが、祐気取りの旅の本当の豊かさなのかもしれません。

🌕✨
こうして、吉日の京都での旅は静かに始まりました。
次の目的地へ向かう足取りも自然と軽く、
秋の空気が澄んで心までも整っていくようでした。

 

京都の風とともに ― 御金神社から京都御所へ

御金神社をあとにして、ここからは電車もバスも使わず、
京都の町並みを感じながら歩いて御所へ向かうことにしました。

空は一面の晴天。
太陽の光がイチョウの葉に反射して、まるで金色に輝いているようでした。
思えば、祐気取りを始めてから不思議と雨に降られたことがありません。
まるで天が「今日もよく来たね」と優しく見守ってくれているようで、
空を見上げては自然と「ありがとうございます」と口にしていました。

歩くことで整う心

旅の途中、バス停の標識や赤レンガの建物、
風にそよぐ木々を眺めながらゆっくりと歩を進めます。
徒歩で移動すると、電車やバスでは見過ごしてしまうような
小さな風景や人の温かさに気づくことができます。

祐気取りの“氣”は、
実は歩くことで身体の中にも流れ込んでくるのだと感じました。
一歩ごとに心が整い、自然と笑顔になっていく――
そんな不思議な感覚がありました。

思いがけない寄り道 ― 京都国際マンガミュージアム

御所までの途中、ふと目に入ったのが「京都国際マンガミュージアム」。
歴史的な校舎を改装したレンガ色の建物が印象的

少しだけ立ち寄ってみると、
壁一面に並ぶ漫画本と、ゆったりと過ごす人々の姿。
そこには「文化」と「自由な創造の氣」が満ちていて、
御金神社の黄金の氣とはまた違う、明るく軽やかなエネルギーを感じました。

ほんの数分の滞在でしたが、
「氣を巡らせる旅の途中には、
 ちゃんと心が休まる“遊びの時間”も用意されているんだな」と気づかされました。

青空の下、祈りと感謝を胸に歩く京都の道。
その静けさと偶然の出会いのすべてが、
この日の旅をより豊かにしてくれたように思います。

 

導かれるように ― 京都御所の前の護王神社へ

京都御所のすぐ前にある護王神社(ごおうじんじゃ)
足腰の守護神として知られ、参拝者の多くが健康祈願に訪れる神社です。

朝からの祐気取りの流れの中で、出かける直前にふと調べたら、
「御所のすぐ近くに足腰の神様がいらっしゃる」と目に留まり、
自然と“行ってみよう”という気持ちになりました。
この時点ではまだ、そこに特別な意味があるとは思ってもいませんでした。

偶然のようで、必然の出会い

本殿でお参りを済ませ、
一歩引いて境内を見渡したその瞬間――
ふと目に入ったのが「戸隠社」という小さなお社でした。

「御利益:歯痛止め・口腔関係の病の除去」
と書かれた文字を見た瞬間、胸の奥がぎゅっと熱くなりました。

実はその日から3週間後に親知らずの手術を控えていたのです。
長年怖くて避けていた手術。
「骨を削る」という説明だけで気が遠くなりそうなほど、
怖がりで痛がりの私にとっては大きな壁でした。

それだけに、この小さな社との出会いはまさに奇跡のようでした。
足腰の神様をお参りするつもりで訪れた神社に、
まさか“歯の神様”がいらっしゃったなんて――。
あまりの偶然に、思わず涙がこぼれそうになりました。

祈りの言葉

静かに手を合わせて、
「どうか、痛くありませんように。
 そして無事に終わりますように。」と祈りました。

その瞬間、風がひとすじ境内を通り抜けて、
木々の葉がやさしく揺れました。
まるで神様が「大丈夫、心配いらないよ」と
そっと背中を押してくださったような気がしました。

祐気取りの旅では、
訪れるたびに“偶然のような必然”がいくつもあります。
この日もきっと、方位が導いてくれたのは、
私の心に必要な“安心”という氣だったのでしょう。

こうして、思いがけない形で心が癒された京都の一日。
金色の鳥居、青い空、やさしい風、
そして小さな社での祈り――
そのすべてが、今日という日の祐気を豊かに満たしてくれました。

天と地の氣がめぐる場所 ― 京都御所

護王神社をあとにし、ゆっくりと歩いて**京都御所(京都御苑)**へ。
その荘厳な門構えを前に、思わず息をのみました。
まっすぐに伸びる参道と、風にそよぐ木々。
その広さと静けさに、言葉を失ってしまうほどの圧倒的な氣を感じます。

御所という場所は、
まさに“天と地が交わる場所”のように思えます。
陽の氣と陰の氣、自然と人の氣、
そのすべてが穏やかに混ざり合っている――
そんな柔らかなエネルギーに包まれました。

木陰と陽だまりのバランス

少し歩くだけで、空気の温度が変わるのが分かります。
木陰に入るとひんやりとした風が頬をなで、
日向に出ると太陽の光が肌を包み込む。

「この世界はちゃんと調和しているんだな」と、
そんな当たり前のことを実感させてくれる穏やかな時間でした。
木々の間から差し込む光がまぶしくて、
思わず深呼吸をひとつ。
心の奥まで澄んでいくような感覚でした。

御所の中の小さな神社 ― 白雲神社

広い御苑の中を歩いていると、
ふと目にとまったのが白雲神社(はくうんじんじゃ)
静かな小道の先に鳥居が立ち、
その向こうに見える社殿はどこか親しみのある佇まいでした。

御所という厳かな場所の中にありながら、
白雲神社はとても穏やかで、まるで日常の延長にあるような雰囲気。
風がやさしく木の葉を揺らし、
参拝する人たちの声が小鳥のさえずりに溶けていく――。

立ち止まり、手を合わせた瞬間、
「ここまでの旅を守ってくださってありがとうございます」と、
自然と心の中で言葉があふれました。

空を見上げて

この日、空は朝から一度も曇ることがなく、
御所の上に広がる青空には
薄く流れるような白い雲がいくつも形を変えていました。

祐気取りを始めてから、
本当に雨に降られないことが多くなりました。
「今日も晴れてくれてありがとう」と空に向かってお礼を言う。
それがもう旅の習慣のようになっています。

青空と木々の緑、
そして静かに佇む白雲神社。
京都の中心で感じた“天地の氣”は、
心をゆっくりと整えてくれる特別な時間となりました。

龍神雲の導き ― 京都御所・清所門にて

「本日、休館日(月曜日)」

その文字を見た瞬間、
「ああ、そうだったのか」と思わず笑ってしまいました。
きっと今日は、“御朱印をいただく日”ではなかったのでしょう。
祐気取りの旅では、思いどおりにならないことも、
きっと全部が“導き”なのだと感じます。

空に舞う龍神雲

門の前で立ち止まり、ふと空を見上げると――
そこには、まるで龍が舞い上がるような雲が広がっていました。
ぐんと伸びる雲の先に、くっきりと弧を描く姿。
思わず「いた!」と声が出てしまいました。

この“龍神雲”に出会うのは、これが初めてではありません。
二年前、心が折れそうになるほど辛い出来事があった時、
ある晴れた日にふと空を見上げたら、
笑っているような形の龍神雲が現れたのです。

その時から私は、
晴れた日にはいつも空を見上げて龍神様を探すようになりました。
今日のこの青空も、
「また来なさい」と優しく言ってくださっているように思えてなりません。

導かれる旅の続きを信じて

御朱印は次の機会に――。
けれど、代わりに空から龍神様が顔を出してくれたことこそ、
最高のご褒美のように感じました。

旅の途中には、思いがけないハプニングや、
予定通りにいかない出来事がつきものです。
でも、祐気取りの旅では、
それすらも意味のある「氣の流れ」として受け取れるようになります。

清らかな青空の下、
「またおいで」と語りかけるようにたなびく龍雲。
その姿を見つめながら、
私は心の中で静かに手を合わせました。

「今日も、ありがとうございます。」

空と大地の間で感じた氣の流れ。
御金神社から始まったこの日の京都旅は、
偶然のようでいてすべてが必然だったように思えます。

次に訪れる時は、
きっと龍神様がまた笑顔で迎えてくれることでしょう。


大自然のごちそうを頂く ― 京都御所での贅沢なひととき

京都御所の中はとにかく広く、歩いても歩いても景色が続きます。
自転車で風を切って走り抜けていく外国の方々の姿を見て、
思わず「私も自転車が欲しいな」と笑ってしまいました。

木陰にはたくさんのベンチがあり、
そこでは多くの人が本を読んだり、静かにスマホを眺めたりと、
思い思いの時間を過ごしています。
まるでどこか海外の公園にいるような、
穏やかで自由な空気が流れていました。

 

自然に身をゆだねる祐気取り

祐気取りでは、神社仏閣でお参りをするだけでなく、
その土地の空気や水、風を感じながら氣を取り入れることが大切です。
温泉に入ったり、土地の食材を頂いたり、
そして、自然の中でゆっくりと呼吸する――。
私にとっては、その時間が“氣の食事”のようなものです。

この日も、御所の木陰に腰をおろして
静かに目を閉じ、ゆっくりと呼吸を整えました。
鳥の声と風の音、木々のざわめき。
すべてが心地よく、まるで自然そのものが語りかけてくるようでした。

「いま、ここにいられること」
それだけで十分に満たされる瞬間でした。
京都の氣を胸に、また次の旅へ

 

しばらくして目を開けると、
青空の下に立つ大きな樹々が、静かに見守ってくれていました。
この日の祐気取りは、
神社を巡る旅でもあり、同時に“自分の内側とつながる時間”でもありました。

御金神社で祈り、護王神社で導かれ、
白雲神社で感謝を捧げ、そして御所で氣を満たす。
すべての流れが自然につながっていたことに、改めて気づかされました。

京都の大地と空からたっぷりと“氣のごちそう”を頂いて、
また次の方位、次の旅へと歩き出します。

一日の祈りを胸に ― 御朱印と京都の夜

祈りと氣に満ちた京都での一日も、
夕暮れとともに穏やかに終わりを迎えました。
この日いただいた御朱印は、
御金神社菅原院天満宮神社のもの。

金色の御朱印帳に墨文字が映え、
その筆の力強さに“神気”が宿っているようでした。
一枚一枚が、その日の出会いや祈りの証。
手のひらでそっと触れると、
まるでその場所の氣が今も残っているような気がします。

京都の夜散歩

いつもならここで旅を終えて帰路につくところですが、
この日は少し特別でした。
京都で娘と夕ごはんの約束があり、
神社で授かったお守りをお土産として渡す予定です。

約束の時間まで少し余裕があったので、
御所から町中へと足を向けました。
夕方の京都は、昼間の賑わいとは打って変わって、
どこか懐かしい静けさが広がっています。

京の町家が灯る時間

ふと目にとまったのは、町家づくりの並ぶ通り。
木格子の窓からやわらかな灯りがもれ、
行き交う人の足音が石畳に響きます。
古き良き京都の姿がそこにあり、
思わず立ち止まってしばらく眺めてしまいました。

夜風が心地よく、
一日の出来事が静かに胸の中でほどけていくようでした。
「あぁ、今日もよく歩いたな」
そんな言葉とともに、
心の奥にやさしい充足感が広がっていきました。

 

京都の夜に包まれて ― 

ビリヤニを食べる予定が、まさかの売り切れ。
次に目をつけたインドカレー屋さんも行列ができていて、
「もう今日はタイミングじゃないのかも」と笑いながら歩いていると、
目の前に現れたのが、あの印象的なのれん。

『とんかつ 豚ゴリラ』

その勢いのある名前に、
最初はちょっとびっくりしながらも思わず足が止まりました。
けれど店の中に入ると、その印象が一変。

迎えてくれたのは、
柔らかくて丁寧な声で案内してくれる若いスタッフの女の子。
言葉づかいも笑顔も本当に優しく、
こちらが恐縮してしまうほどの親切さでした。

「店名とのギャップがすごい!」と心の中で思わず笑ってしまうほど、
すべてが丁寧で温かい。
そんな雰囲気の中で出てきたとんかつ定食は、
衣がサクッと軽く、お肉はふんわりと柔らか。

添えられた味噌汁の香ばしい香りが心に染みて、
思わず「おいしいね」と声が漏れました。
その一皿は、まるで神様からの「今日もよく歩いたね」というご褒美のよう。
疲れがすっと抜けていくようでした。

“豚ゴリラ”という元気な名に込められた、
実は優しさと誠実さの氣。
このお店の存在そのものが、京都の祐気取りの締めくくりにふさわしいものでした。

 

月と音の贈りもの

店を出て空を見上げると、そこには見事なお月さまが輝いていました。
雲ひとつない夜空の真ん中で、
白く丸い光が街をやさしく包み込んでいます。

その光に導かれるように歩いていると、
どこからかヴァイオリンの音が――。
流れていたのは、ジブリ映画『ハウルの動く城』のテーマ曲でした。
私と娘が大好きな曲。

思わず足を止めて聴き入っていると、
なんとそのヴァイオリンの弦が一本切れていたのです。
それでも奏者は笑顔で演奏を続け、音は途切れることなく流れ続けていました。

その姿を見て、私は思わず胸が熱くなりました。
「弦が切れても、音は奏でられる。」

――それは、まるで人生そのもののよう。

時に予定通りにいかなくても、
計画が崩れても、
それでも心の音を止めずに前へ進むことができる。

そのヴァイオリンの音は、
まるで今日一日の祈りと氣の旅が、
この瞬間にすべて重なって響いているようでした。

私は立ち尽くしながら、
その美しい音色に涙がこぼれそうになりました。

 

25083歩の祈り

帰宅して歩数を見て、思わず目を疑いました。
25,083歩、約18km。
まるで氣を吸い込むように歩き、
心を整え、自然と調和した一日でした。

偶然のようで必然の出来事が次々と訪れ、
最後には龍神雲と中秋の名月が見守ってくれた。

この京都で過ごした祈りと氣の一日は、
ただの旅ではなく、魂のリズムを整える“氣の巡礼”だったのだと思います。

祈りの旅の終わりに

娘と再会し、食卓を囲みながら渡したお守り。
笑顔で「ありがとう」と受け取ってくれたその瞬間、
旅の終わりにふさわしい温かさが心を満たしました。

祐気取りの旅は、
自分のためだけでなく、大切な人の幸せを祈る時間でもあります。
そして、その祈りはきっと“氣”としてめぐり、
また新しいご縁や光を運んできてくれるのでしょう。

夜の京都の街並みをあとにして、
「また来ます」と心の中でつぶやきました。

今日も素敵な氣をいただいた一日。
金色の御朱印帳が、やさしく月の光を反射していました。

夜空の月、ヴァイオリンの音色。
どれもが今日の祈りを静かに包み込み、
新しい一歩へと背中を押してくれました。

「またおいで」
龍神雲の言葉が、
今も心の中で優しく響いています。

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